「踊る大捜査線N.E.W.」に透けるのは、フジテレビの治らない"病状"か?――組織と戦う物語が、傷ついた人びとを見過ごしている
9月18日に「踊る大捜査線N.E.W. メトロポリスを駆け抜けろ」が公開され賛否両論を巻き起こしている。私もさっそく見に行き、胸の中に賛否両方の思いが渦巻いた。
前半は正直キツかった。コントのような場面が続き、狙った笑いがことごとくすべる。
それが後半、捜査会議の場面で変わる。青島が上司や後輩を前にタンカを切る。
「上に上がらなくても、正しいことはできるとわかった」
私はこのセリフを2025年のフジテレビに重ねた。中居正広氏をめぐる問題で明らかになったのは、上に行った人たちが正しいことをしなかったという事実だった。だから「上に上がらなくても正しいことはできる」は、局の現場で踏ん張る人々へのエールに聞こえる。そう書いた。
いま振り返ると、この読みは半分しか見ていなかった。
Podcastで突きつけられた指摘
みなさんの感想が気になってPodcastを聴いて回った。一人の感想に私同様、賛否が渦巻きつつも、批判の方が強かった。その批判はあまりにも的をついていて笑えるほどだった。確かに言う通りだ。私は自分の甘さを恥じてしまった。
中でも「小出祐介&南波一海の『こんばんはプロジェクト』」のPodcastでの鋭い批判にはぐうの音も出なかった。彼らの指摘は、「フジテレビで起きた問題をフジテレビは自覚できてないのではないか」というものだった。納得してしまったので、彼らの指摘に沿って書いていく。
描かれなかったもの① 犯人の少女と、その母親
事件の犯人は女子高生だった。劇中で語られる動機は「大人が嫌い」というものだ。
では、なぜ彼女は大人を嫌うようになったのか。手がかりは劇中にある。短い時間登場した母親は自分の恋愛を優先し、娘を放置していた。いわゆるネグレクトだ。
ところが、物語はそこを掘り下げない。少女は「理解できない今どきの若者」として処理される。母親は一度登場するだけで、娘に何をしてきたのかを問われることも、反省を求められることもない。
少女は加害者だが、同時にネグレクトの被害者でもある。そして被害の連鎖の起点には、責任を問われない大人がいる。映画はその大人を視野の外に置いたまま、事件を解決してみせた。それでいいのかと「こんプラ」は指摘する。
描かれなかったもの② 雪乃と勇気
もう一つある。久しぶりに真下雪乃が登場した。演じるのは水野美紀だ。
今回の雪乃は、息子の職場にまで干渉してくる過保護な母親として描かれている。観客の笑いを誘う役回りだ。
だが、シリーズを観てきた人なら知っているはずだ。雪乃はTVシリーズで父親を殺されている。息子の真下勇気は、映画4作目で幼い頃に誘拐された経験を持つ。
殺人事件の遺族である母親と、誘拐被害に遭った息子。その母親が息子に過剰に干渉するなら、そこには理由があるかもしれない。母子はそれぞれ、何かのトラウマを抱えているのではないか。
しかし映画は、そこに一切触れない。シリーズ自身が積み上げてきた「傷」を、シリーズ自身が忘れている。雪乃の過保護は、ただの笑いの材料で終わっていることを「こんプラ」は突く。
「踊る」には、縦の軸しかない
二つの例に共通するものは何か。
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