放送は終焉する、その後のメディア世界を描くべき時が来ている
画像はGeminiにより作成
2025年、放送100年に放送の終焉が見えた
今年は放送100年だったそうだ。だがそんな2025年に起きたことは、その放送の終焉が近い、と予感させることばかりだった。東洋経済オンラインに書いた記事を読んでもらえればと思う。
放送はいつか終わりますよね?と聞けば誰だって「それはそうですね」と答える。だがずいぶん先というイメージだっただろう。私も、2040年代かなあと漠然と感じていた。
今年起きたことを考えると、そこまで先ではなく、2030年代ではないかと思うようになった。だとすればあと10年だ。そういえば、BBCは2034年に放送波の停止を検討している。そのための準備、放送波を配信に置き換える段取りを進めている。日本でも同じ準備を進めなくていいのだろうか。
「放送信者」はもう要らない
放送関係者と話すと、放送が好きなんだなあと感じることがよくある。10年ほど前、あるテレビ局が始めた配信サービスのトップからその概要を聞いている時、突如その人物が「ただね、境さん。放送の力はすごいですよお!」となぜか言った。配信の話を聞いているのになぜここで放送讃歌になるのかと謎に感じた。配信事業のトップも、放送信者なんだと受け止めた。
放送信者は業界に多い。そもそも「放送100年」の言い方が変ではないか?本来は「ラジオ100年」だろう。なぜ「放送」なの?そしてラジオはすでにradikoを整え、放送から配信への完全移行の準備ができている。実は「放送100年」はテレビのための言葉であり、これからも放送が一番だ、だからテレビは未来永劫だ、と言いたい言葉なのではないか。NHKの「放送100年特集」が振り返るのもテレビの話ばかりだ。
放送終焉の話をすると、でも災害時は放送が、ラジオが、との主張もよく聞く。だがラジオを電波で聞くにはラジオ受信機が必要だ。今はまだ多くの人が持っているだろうが、10年後に持つ人はどれだけいるだろうか。
この「災害時には放送が」と聞くと、申し訳ないが、放送信者だなあと思ってしまうのだ。10年後には災害時に避難所で、テレビは見れないけどスマホでradikoをみんなが聴いているのではないか。「こう想定すると電波が・・・」という議論はもうやめて、電波を使わない世界がどうなるかを考えるのが建設的だと私は思う。
放送信者が電波に情緒的価値を込めて語るのが、建設的議論を妨げていると思う。「放送はすごいですよお!」と言うのは彼の人生が放送とともにあったからなのだろうが、そんな感情は邪魔でしかない。
放送の唯一の優位性は、一斉同報に耐えられることだった。だがNetflixはスポーツライブ配信でNFLの試合でもサーバートラブルは起こさなかったし、遅延もほとんどないという。技術の進歩はいつも爆速だ。放送の優位性はすでにどこにもない。
「Broadcasting」と「放送」はイコールではない
「Broadcasting」という英語はもともと、農業で使われていたそうだ。「種を広く蒔く」との意味らしい。広範囲に広がるように放り投げる「散布」による蒔き方を表現しているのが、ラジオができた時に比喩的に使われた。
ここで重要なのが、「広く蒔く」形式のコミュニケーションを意味しており、電波とは必ずしも結びついていない言葉であることだ。
日本語の「放送」も言葉としては同じはずだ。ところが実際には「放送=電波」になってしまった。特に法律上では「放送=電波による公衆送信」「通信=特定の相手への伝送」と分けられた。そこが問題をややこしくした発端であり、放送信者が放送に情緒をこめる根源ではないか。「放送=電波」が議論を狭めていると感じる。そしてそれが免許事業であることがさらに話をややこしくしている。奇妙な使命感をいつも感じるのだ。「公共性が大事だ、民主主義を守らねば」と言いつつ視聴率ビジネスに塗れている矛盾がそこにはある。
「放送」とは不特定多数に同時に情報を届けることだとその機能に注目して捉えれば、YouTubeやNetflixも同じだと言える。「通信=特定の相手」ではもはやなく、通信でも放送と同じことができるようになった。その前提で放送の定義を変える、あるいはいっそ、全部「配信」と呼ぶことにすれば議論がしやすくなると考える。
放送とはコンテンツの起点にすぎない、と考える
放送が終焉したのち、放送はどうなるかを構想し始めるべき時だ。あと10年かそこらで放送が終焉する(放送インフラを維持できなくなる)としたらどうすればいいか。
単純に考えるべきだ。radiko同様、いまのテレビが放送している状態をそっくりそのまま配信に経路を置き換える。テレビ受像機のリモコンで今と同じチャンネルを押すと番組が映される。ただ、経路は電波ではなく通信。現状のテレビ受像機を少しだけ技術的に変えれば実はそんなにハードルは高くない。
ただし通信経由なのだから、すぐに巻き戻せる。最初から番組を見ることもできる。これはNHK ONEでNHKプラスをテレビで見るとすでにできていることだ。
ユーザーはNHKプラスやTVerを立ち上げる必要もない。テレビ受像機が「テレビプラス」に進化している。そこでは放送は個々のコンテンツの起点になる。いまも配信サービスでコンテンツを見る際に、新エピソードが毎週X曜日Y時に配信されることは多い。すべての番組が同じようになる。
だから放送の終焉とはいまのテレビ業界が死に絶えることではない。単に経路が電波から通信に変わり、それによって利便性を獲得することだ。何も変わらない。
ただし、電波を停止するのはエコシステムが維持できなくなるからだ。それならすでにテレビ局の再編が起きているはずだ。ゴールデンタイムのPUTはいま30%を切りかけているが、その頃には半分の15%になっている。その分、広告収入や受信料収入も半分になっているだろう。民放はキー局も含めて潰れたり吸収されたりしているし、NHKは娯楽番組をほとんどやめている。
間違いなくそうなる。誰でもそうなると言われればそうですねと答えるはずだ。それなのに、どうしてそう決めないのか。その準備をしないのか。
BBCと同じように電波を停止するのを203X年と定め、そこに向けた議論を始めて必要な整備をするべきだ。そうしないと電波は停止せざるを得ないのに何がどうなるかわからない状態になりかねない。それは国民にとって何もいいことはない。
なくなる局、残る局、新しいメディア構造
提携媒体
コラボ実績
提携媒体・コラボ実績