私たちはBBCをまったく知らなかった〜「なぜBBCだけが伝えられるのか」を読んで
英国在住ジャーナリスト小林恭子氏の新著「なぜBBCだけが伝えられるのか」を読んで、自分の中のBBC像を大幅にアップデートさせられた。大袈裟でなくページをめくる度に「えー!そうだったのか」と驚いた。
BBCについて知ってる気になって、時に取材を受けると「NHKはかくかくだが、BBCはしかじかだ」などと偉そうに言っていたのが恥ずかしい。私は、BBCをまったく知らなかったのだ、というのがこの本を読んで何より感じたことだ。
読み進むうち、そうしたびっくりの中から「ここ大事!」と思ったページを折り曲げ印にしていたら、印だらけになってしまった。えっと、どこが大事だっけ?全部だよ!
それくらい、この本は情報量が膨大だ。BBCの設立から現在まで、1922年に民間で発足し27年に公共放送となるプロセスから、直近のジャニーズ事務所の性加害報道やイスラエルのガザ侵攻でのハマスの扱いまで、すべてが書かれている。いったいどうやって調べたのか不思議なくらいの情報量。ひょっとして小林氏は、生まれる前から神のようにBBCを観察し続け、起こったことすべてを記録していたのではと思うほどだ。
それぞれの時代の重要な出来事が、同時代で体験したかのようにつぶさに書かれている。それが、1項目について2〜3ページでこってり書いてあり、すぐ新たな項目に進む。自分のスピードで読んでいるつもりが、書かれている情報の流れについていくのが大変に思うほどだ。
そうやってBBCについて知ることは、メディアを考える上での格好の題材になると受け止めた。もちろんNHKを考える上で、同じ公共放送として対比するのがわかりやすいが、それだけではない。BBCはメディアそのもののモデルとして何よりの存在だ。NHKだけでなく、民放や新聞、雑誌、そしてネットメディアも含めたあらゆるメディアの模範とも言っていい。そしてそれが常に、現在進行形で進化している。
BBCを知ることは、メディアの教科書を学ぶことであり、だから本書そのものがメディアを考える教科書なのだと言える。
王立憲章で大きなビジョンを言葉にし、更新していく
読んでいて感心するのが、BBCにはその活動の役割や方向性を明確に示して、それに則って進んでいく仕組みができていることだ。
NHKの会長に当たるのがディレクター・ジェネラル。その選出を含め運営に責任を持つのが理事会で、NHKの経営委員会と同じポジションだ。理事長は一定のルールのもと政府が選ぶ。これだけ聞くと、NHKと同じだ。というよりNHKがBBCをモデルにしているのだろう。
NHKと同じなのにBBCがより理念的に思えるのはなぜだろう。理念化する上で重要なものが「王立憲章」で、10年前後に一度更新される。
例えばP194には2006年10月の王立憲章の締結について書かれている。憲章に書かれたBBCの「公的目的」がいくつか並んだ中に「新たな通信テクノロジーやサービスを全国民が利用できるように支援し、デジタルテレビへの転換を主導すること」が入っている。今から18年も前に「デジタルテレビへの転換」を目指せと記されているのだ。
この王立憲章締結と並行してBBCはデジタルサービスの準備を進めており、20007年12月にアイプレイヤーを正式スタートさせた。
この時のディレクター・ジェネラルはマーク・トンプソン。彼はキャリアのはじめはBBCだがチャンネル4に転職し、CEOにまで上り詰めた。その手腕がBBCにまたスカウトされた形だ。2004年から2012年まで在職し、BBCのデジタル化を離陸させた。ディレクター・ジェネラルは、最初はBBC内から就任していたが、ある時からは外の人物が任命されることが増えた。もちろん、メディア業界で実績がある人物だ。
日本でもし、民放の実力者がNHKの会長に任命されたらメディア業界は仰天するだろう。だが考えてみれば、放送に疎い財界から来るより自然ではないか。
2016年にはアイプレイヤーのみ視聴する人からも受信料を取るようになった。9年を経て、利用者もずいぶん増えたことだろう。
かたやNHKは2020年にやっとNHKプラスをローンチし、さらに「ネット業務の必須業務化」という一言では理解し難い制度変更にどえらくエネルギーを費やして今年放送法を改正し、2025年からやっとNHKプラスのみの利用者からも受信料を取ることができるようになる。何とややこしくお粗末な進め方か。BBCにサービス開始で13年、ネットのみの受信料徴収で9年遅れているわけだ。
議論の進め方のBBCのスマートさと、NHKの行き当たりばったりとの違いは、「王立憲章」のような理念を先に決めることにあると私は感じた。理念を前もって決めておくことは考えたら当たり前なのに、日本では漠然とした議論から先に始めてしまうため、その行先が見えなくなる。
「国民のためになすべきこと」を最初に大きく打ち出し、そのために新しいサービスが必要だ、という順番で進めるべきだと、この例からもわかる。それがないから、業界内からつまらないイチャモンがついて議論が進まない。
ビジョンが先にあるべきだと、省庁や業界団体、各企業トップの皆さんにはこの本から学んで欲しいものだが、日本のメディア業界の物事の進め方を修正するには遅すぎるかもしれない。