2025年、オールドメディア vs SNSの行く末
「オールドメディア」はテレビの自虐
テレビや新聞を「オールドメディア」と揶揄するようになったのは2024年11月の兵庫県知事選挙の結果を受けてだった。斎藤氏がSNSのおかげだったと当選時に表明し、その斎藤氏を「パワハラおねだり知事」と報じてきた新聞テレビの分が悪くなった。それが「オールドメディア」という揶揄につながった。
ただ不思議に思ったのは、前から使われていた言葉だったこと。「レガシーメディア」とともによく使われていたし、さほどネガティブな意味でもなかった。だが急に、新聞テレビを批判する言葉になった。
私の印象では、言いはじめたのはテレビだったと思う。兵庫県知事選の結果を伝える際、特にワイドショーのキャスターたちが「我々オールドメディアはSNSに負けた」のような使い方をしていた。だからSNS側が批判する前に、テレビ側が自虐的に使いはじめたのだと思う。
それが今や、新聞テレビを批判するための言葉として、ネットで頻繁に使われる言葉になったのだ。兵庫県知事選を引っかき回した立花孝志氏のXアカウント名は「立花孝志 オールドメディアは不要!」となっている。
自分たちが自虐的に使いはじめた言葉がすっかりネガティブな言葉として定着したのだから自業自得かもしれない。それなのに、「オールドメディアとネット民に言われて悔しい」というムードになっているのが面白い。だが、悔しいから頑張ろう、とオールドメディアが変わるバネになるのなら、いい流れとも思える。
テレビは選挙報道を復活できるか
オールドメディアとの揶揄に反発して、急にテレビ局が公示日以降の選挙報道に取り組む意欲を示している。NHKでは稲葉会長が11月の会見で「選挙報道の在り方を見直す」と述べ、12月の会見ではさらに「議論を進めている」と踏み込んだ発言をした。
実際にNHK内でプロジェクトチームが発足したとの情報もあり、稲葉会長の発言もそれを示すものだと言える。
民放の社長がこの問題について公式に発言した例は私の知る限りないが、民放連の遠藤会長が「議論が必要」と述べたのは頼もしい。民放連で議論が始まることを期待する。
放送法は「政治的公平」に言及しているだけで、選挙期間中の報道を抑制せよとは書いていない。ただこれまでの流れで、「量的公平」を求められてきた。それに対し「質的公平」で対抗するべきだが、その具体となるとなかなか明確にはできないだろう。
いっそ民放連がガイドラインを示せばいいと思う。さらにいえば、遠藤会長が各政党と話をしてお互いのために選挙報道を積極的に行うことを認めてほしい、と言ってもいいのではないか。ただ、メディアが政治家と妥協しあうのはよくないのかもしれない。
この問題の解決策ははっきりしている。「覚悟を決める」ことしかない。報道部門が、そしてトップが「責任とるからやれ!」と言うしかないのだと思う。もちろん「質的公平」の根拠は議論してクレームに対処するのが基本だが、それでも「不公平だ!」と言ってくる政党や候補には「うちの判断で公平を担保できているのだ」と言い張るしかない。どこまで行っても完全な公平などありえないからだ。
そして2025年は、各テレビ局は「覚悟を決める」だろう。ここでまた「オールドメディア」呼ばわりされると視聴率には影響がなくても沽券にかかわるからだ。私はメディアにとって、メディアとしての矜持ほど大切なものはないと考える。今年また選挙報道に後ろ向きなテレビ局があったら、軽蔑するしかない。
「リベラル」を脱却せよ
このテーマは2025年、強く言っていきたいと考えている。去年も2回ほど似たことを書いた。
米国大統領選挙と兵庫県知事選挙ではっきりしたのは、オールドメディアがオールドかどうかではなく、人々との「ズレ」だったと思う。
誰かが言っていたのだが、権力監視は反権力とイコールではない。そこに大きな勘違いがあったのではないだろうか。
またこの10年ほど、ポリティカルコレクトネスが盛んに言われた。これは米国からの「輸入」だ。これにはいい面もたくさんあって特に「Me Too」運動は日本でもようやく女性の地位向上につながったし、おぞましい性加害事件の告発も連鎖反応で起こった。LGBTについて普通に語れるようになったのもポリコレの影響だ。
だが同時に、過剰なポリコレもあった。それは差別ではないのでは?と思うことまで差別と言われ、反論しにくい空気だった。
本国アメリカでは、「メリー・クリスマス」が言えなくなっていた。クリスチャン以外の人々への配慮だ。仏教徒なのに平気でクリスマスを祝う日本人からは理解できない感覚だ。それほどまでに他宗教の人々が圧迫を感じていたということだろうが、どこか解決の方向が違う気がする。少数派が疎外感を持つことは何でも「ダメ」になってしまうのもおかしいのではないか。
ポリコレは民主党のスタンスとほぼイコールだと思う。「弱者に寄り添いましょう」という民主党的主張は実は、金持ちの余裕があって言えることだったし白人中間層をつまはじきにしていた。弱者に寄り添ったら、その次の弱者をないがしろにしてしまった。その人々こそ民主党の支持者だったのに、その層の支持を失い、さらには寄り添っていたはずの黒人やプエルトリカンにも見放されてしまった。
これに近いことが日本の立憲民主支持層にも起こった。東京都知事選で蓮舫氏を立憲民主と共産党でバックアップし、盛り上がっているかに見えたら実は狭い内輪の盛り上がりになっっていた。
立憲民主の支持層はいまや団塊の世代が中心で、若い層は石丸伸二氏や国民民主党に流れた。立憲民主の「うわべ感」は見破られているのだ。
同じことはメディアにも言える。長らく続けてきた「リベラル」というポジションは米国民主党と同じように「金持ちの余裕」によるものになった。若者には響かないし、よくよく考えると「リベラル」とは「やや左」で、偏向と言えば偏向していたのだ。
メディア、特に報道の分野の人々が、「リベラル」から脱却できるかは、実は今後の信頼を得られるかどうかにつながる。パワハラ知事報道は「反権力」だとうっかりのっかっていると、「テレビは嘘つきだ」と言われてしまう。リベラル色を一度無色にして、まっさらな目で世の中を見つめるべき時だ。